昭和52年09月16日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 昨日は富久信会でございました。皆さん一緒に秋の総会があそこは県民の森ですか、という所でございました。もう私が足が上がらん位に疲れて、もうあのまま休んでしもうてから目が覚めた時にはもう九時半でした。もう富久信会があっておりました。まあ不思議な事に、心をまた神様に向けてお話を聞いたり、させて頂いたりしておると、また途端に元気が出まして、丁度十二時一寸前まで一生懸命研修させて頂きました。
 皆疲れておるから、昨日は少ないだろうと思うとったら、そんな段ではない皆出てきておられます。また昨日は珍しい人達まで参加して、おかげを頂いた様な事でした。昨日総会の時に皆さんにお配りしました「合楽理念によせて」という私が書いたものを皆さんにお配りしまして、大変難しかったと皆が申しますので、ならもう一遍一区切り一区切り聞いて貰うて、そして私が説明をして分からん所があったら。
 また分からん所を説明しましょうと言うて、「合楽理念によせて」というそれを芯にして、お話を進めたことでございます。その最後のところに他宗他派と、外の例えばまあ代表的なのは仏教とかキリスト教なんかですけれども、本当に信心を分かろうと究明して参ります、勉強して参りますと、もういよいよ分からなくなって、もう必ず迷宮入りをするというとこがございましょう。
 例えば末永先生のところにカトリックの神学を愈々本気で修めようと勉強を始めて、そして勉強すればするほどに分からなくなって、それこそノイローゼの様になって、もう自殺するより外にないと、言う様なところまで追い込まれるのが、真剣に神学を求めていく人達の上に起きて来る一つの現象だとこう思う。もう分からなくなってくる。いやそれもね、ただ分かるだけなら分かるか知れません。けれども自分が助かりたいからこそ、神学を勉強するのですからね。
 例えていうならただ神学の研究というのだったら、何の学問だってこれで良いと言う事はありません。切りがないだろうと思います。けれども自分が助かりたいから、神学を勉強すると言う事になると、どれが本当やらどうすりゃ助かる事やら、いや助かる事どころか、かえってもうそれこそ哲学を極めていって、華厳の滝で飛び込み自殺をした藤村操青年がありましたね。と言う様な事にもなりかねない。
 例えばこれは仏教なら仏教でも、あのぼつ大な経典の研究でもするというからには、まず梵語の一つも研究して、そこから始めなければ本当の仏教は分からないとこう。しかも、いうならもう完全な哲学です。仏教哲学ですからもういよいよ難しい事になってくる。そして輪廻とか因縁とか言う様なところに入っていきましたら、もういよいよ助かりようがないほどの、まあするんだと。この頃から生長の家を極めた、極めたというが、まあ読破したと、長年の信心をさせて頂いて自分が助からない。
 たまたま合楽理念の特集号を読まして頂いて、もう自分が助かりたかったのは、分かりたかったのは是だった、というものに何か行き当たったような喜びで生き生きと読み始めて、不治といわれた病気が治って、先月四、五日前のこの前のお月次祭にお礼に出てきた話やらを具体的に言うと、そういう風に例えば宗教というものが、例えばぼつ大な経典、経文と言った様なものを持っておらなければ、宗教としての値打ちがないと言う様な見解でいくと、なら合楽理念なんかは一番簡単なものなんでしょうね。
 けれども宗教が人が助かると言う事。まあ今日の御理解でいうなら、心に光を頂くというか、自分の心の芯に光がともるというか、そして自分の周囲が明るくなり、世界までもその明りを大きくしていこうと言う様な信心であるならば、宗教というのが神様が宇宙が示して下さる事を教えるのが宗教であり、何のために教えるかというと、もうギリギリ人間氏子が助かると言う事のために、宗教があるんだという見地からいうたら、合楽理念をおいて外にはないんだ。
 それでも合楽理念があまりにも簡単すぎるからというなら、私が三十年間お話し続けてきておる、それをなら読めばやっぱり合楽理念もぼつ大なものになりましょう。けれどもそれを信心助かると言う事なら、それを読破しなくても勉強しなくても、ここの所を極めていけば良いのだ。しかも極めていく手掛かりというものが説いてあるから楽だ。本気でその気になればです。
 それこそ自殺しなくたって行き詰まらなくても、それが楽しう有り難くしかも愉快に、天地をバックに天地を一つの働きをリズムのように頂いて。私は昨日の総会これはいつものことですけども、昨日の総会なんかそうでした。前の日はもう本当にまた夏が来たように暑い一日でしたよね。昨日はもうそれこそ今にも降りそうな低い雲が垂れこめておるような中に、私どもが自動車で行く時にパラパラ降ってましたね。
 ガラスに雨がかかっておりましたよ。けれどももうヒンヤリした、もう山の上は特に涼しい風が吹いて、もう本当に最高のあつらえたような、また神様があつらえて下さったんです。私どものためにね。だからそういう天地をバックにした天地のリズムが聞きつづけられると、本当に有り難いことだな、勿体ない事だなに尽きるほどしの、いうならおかげの頂けれる手立てが合楽理念は説かれてあるんだ。
 それで段々「合楽理念によせて」というのを説明して参りました時に、最後の迷宮入りという所に説明する時にです。私が佐田先生が丁度夕べ出て来とりましたから「佐田先生あんた方は、あらゆるいろんな宗教の勉強もしとるし、金光教も止むに止まれん思いで、それこそ合楽に来るというだけでも大変な度胸がいる所を、いわば押し分けるようにして合楽で修行しとるのですから。随分やはり求め続けてからその与えられない、いうならば淋しさが合楽を発見、魅入らせて合楽にいわば飛び込んで来た訳です。
 だからその他の宗教、宗派というものを極めていくと、確かに私が言う様に迷宮入りをすると言う事について、あんたはどう感じるか。」という質問をしたんです。そしたら彼こういう事を言うんです。「僕はね他の宗派のことは知りません。」とこう言う。もう教会に生まれて教会に育ったんですから、もうただ金光教一点張りで来たわけです子供の時から。それでいて、本当の信心、真の信心とはと。
 お道の教師にでもお取り立てて頂いたんですから、真の信心を身に付けて、真の信心を皆にも伝えていきたいという念願がです。結局あそこにも修行に行ってみた。もうありとあらゆる金光教でいう高徳な先生、有名な先生の書かれた本もそれこそ読破した。分からない。そこで当時日本一と言われ、中央ででも大変評判の良いある先生のところに三年間修行をした。これは中央で評判が良いというのは、やはり本部で取り上げられる評判の良か先生ですね。合楽なんか一番評判が悪かとですたい。
 それでいて、やはりお徳も受けられ、教会も立派に立っていっておるという。もう口だけはもうむごう言いなさるばってん、その人の教会に行ったら、もうそれこそ、もう閑古鳥が鳴くように、淋しい教会のところが多いのですよ。だから口ばっかりの先生のところでは、そういうところが多いです。けれども佐田先生が行った教会は、いうならば先生も大変有名だし評判も良いし、教会でも、相当の御比礼を頂いておられる教会なんです。そこで三年間修行した。
 「僕はだから他の宗派宗教を研究するとか、勉強するとか、その信心を極めようと思うたこともないけれども、僕は第一金光教の信心で迷宮入りをした。」と言っております。私はそれを聞かせて頂いて、また改めて分かったです。本当に本気で金光様の信心を、いうなら真一つで助かる道だと言われるから、その真とは真の信心とはと、極めに極めようと思うけれども、話も聞いたけれども、日参りもしてみた修行もしてみたけれども分からんで、真のおかげが受けられんでおるお道の信奉者も沢山あろうかと。
 私は改めてまた思うたですね。金光教の信心でもです。いうならば迷宮入りをしたというんです。なら末永先生とか、なら今日は郷ノ浦の末永先生も見えとりますけども、なんかは金光教に対して、ある意味あいにおいてはもう見限りをつけておったんです。お父さんの信心ぶりというものは、もう本当に実意丁寧神信心の、いうなら真面目な父が何十年間の布教の様子がこの位な事ならば、とても私なんか金光様の先生にはならん。長男である末永先生自身が、そう思って外に職を選んだ位ですからね。
 ならビリグイに行っとる末永先生なんかは、もうなおさらああいう気の利いた人だから、自分は事業家になる。何かさせて貰うというので、学校を卒業と同時にそういう仕事を選んだ訳なんですね。金光様の信心のその有り難いというものを、その見せたり聞かせたりする何ものもなかった訳なんですね。それがたまたま合楽に縁を頂いた所からです。これは金光教をまた改めて見直したと言う事になるのじゃないでしょうかね。
 佐田先生が言っとられますように、僕は金光教自体、そりゃお道の教師を志したんですから、やっぱり極めたいわけですね。そして偉い先生のところで修行したら分かると思ったんです。ところが分かるどころか、かえって混迷な中に入ってしまって、まあ鬱々としておるところに、あちらの弟の先生が、内の正教先生と同期だったわけで、それで合楽の評判を聞いて、それでここに、二、三回修行に参りまして、最後は一週間でしたかね、十日でしたか、ここへ修行に参りました。
 そして私が奉仕しとる時間、今高橋さんが座っとる所にジ-ッと座って、いわゆる神習です。もう私はあの人が帰る時に、人間がこげん変わられるもんじゃろうかと思う、内容が変わってくると言う事がね、こんなに素晴らしいことだろうかと思う様に変わって帰ったです。その変わった姿その弟の姿を見て、佐田先生は感じた訳です。たった一週間か十日行ってこんなに変われるものなら、という事じゃなかったでしょうか。そしてなら御自身はいうなら十日二日じゃない。
 本気で合楽理念のマスターその確立が出来るまで、ここに一つの見通しが出来てきた。もう絶対の道がここにはっきり明示された。それを日々行に表わしておるというのが、佐田先生の今の信心の姿じゃないかとこう思うのです。ですからそういう例えば今日の御理解で申しますとです。カンテラに油一杯あっても芯がなければ火はともらぬ。芯というのは<用心>のことでしょうけれども、芯というのはどう言う事かというと、絶対だ間違いがないという信がなからなければというのです。
 ただ金光様一心ですというそういう心ではないわけです。ならここで言われておる、なら合楽理念です。これは絶対の道だしかも完璧の域に入ったんだ。極めて行くと言う事は限りがないのだけれども、その絶対の道といわれるその絶対の道に出た。そしてそれを一歩一歩修行させていただいた。いうならばまあ三味線に例えるならばです。三味線の好きな人が三味線を聞きます。その音色がいうなら耳に入って参ります。そしていわば恍惚とするほどに素晴らしいなあとこう思います。
 だから金光様の信心が素晴らしいなあと、見ておるだけでは分かっただけ。だから金光様の信心は、その金光様の信心というのを自由自在に弾きこなせれる稽古をしなければ駄目なのです。いうならば耳ばっかりが肥えてきた。だから耳だけが極楽行きしとると言った様な事ではでけんのです。言う事ならばそれこそ先生の様な事も言えれる様になるだけではいけんのです。それがこういう信心、こういう信心をさせてもらえば、こういうおかげが頂けれるという自分もおかげの実感の中に浸らして貰う。
 人にもそれが示せれる所にです。私は三味線が好きだから、聞くのが好きだじゃなくて、弾くのが好きだと、言う事にならなければ駄目だ。なら佐田先生の場合なんかもちろん、道の教師を志すくらいですから、信心を身に付けよう、本気で稽古させて頂こうとしたけれども、それを本当に教えてくれる人がなかった。それを三味線でいうなら、竹に雀から今稽古をしておるところ、まあようやく調子が合うか合わんかと言った様なところが少し感じられてきたこと。
 そしていうならば様々な難曲と言われる様な曲でも、弾きこなせれる様に段々なっていく。いうならば本当のものを、いうならば私が長唄なら長唄を一通りマスターして、それを私がマスターした、それをそのままに皆さんにお伝えするのですから、私と皆さんが一緒に相三味線で稽古をしなければいけない。そして親先生と一緒に弾いとる時には素晴らしい音色が出よるごたるけれども、家で弾いてみると音色が悪い。それでまたそれを弾いていくうちに親先生と同じ様な音色が出ると言う様なです。
 そこんところに楽しみを感じれれる様な信心にならなければならない。そういうそこに極まった時に信が出来るのです。三味線を覚えようという一心なんです。三味線が好きだというて、聞くとが好きだけでは信にはならんのです。それを覚えようという一心なんです。しかもならそれが手探り的に教えるのじゃない。私も本当は分からんばってんからと言うて教えるのじゃない。私が本当の事を分かって皆さんに教える。長唄でもそうです。何々という、いうならば名のある師匠から習うということがです。
 やはり筋も良いし、また間違いのないところを教えても貰える。またそれを覚えることも出来ると言う事なんです。それを私が本当にまあ何というかね。慢心と言われるかも知れませんけれども、私が踏んできたところの道を間違いはなかった。だから間違いのなかった証拠に、こういうおかげも表れてきたというおかげの実証を示しながら、皆さんにお取次させて頂いてるというのが今の合楽だと思うのです。だから自分も三味線を握って自分も弾く気にならなければ駄目だと言う事です。
 私は昨日、佐田先生の話を聞かせて頂いてです。本気で弾こう、本気で習おうという気にならせて頂いたからこそ、「私はお道の信心でも他の信心は知らない、けれども金光教の信心に私は確かに迷宮入りをしておった」と言うのです。それを合楽では、はっきりこうだと道を示して頂くのですから、信心がもう有り難うなってきた。楽しうなってきた。もちっと調子が分かるようにでもなってくると、もう愉快になってくるでしょう。「火がともらねば夜は闇なり、信心なければ世界は闇なり」。
 世界が闇どころではない。自分の心が闇だ。自分の家庭ですらも明るくする事が出来ない。これでは本当の信心を頂く値打ちと言う事はない。「信心せよ信心とは我が心が神に向かうのを信心というのじゃ」。教団全体でも言われます。金光教の信心は総生神を目指す事だと。なら目指しておるだけで、一歩も前に前進しなかったら、目指さんとも同じ事であります。一歩ずつでもそれに近付こうとするね、本当に三味線を弾き習おうという気になって、自分も三味線を持つ気にならなければ駄目なんです。
 聞いておるだけでは、ただ言うておるだけでは。金光教の信奉者が皆、総生神を本当に目指して本気で習う気になったら、もっと私は生き生きとした活動もできると思うです。「我が心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても氏子に信なければおかげはなし」。なら合楽で今言う様にもうこれ程本当なことだ、間違いがないと言うて、皆さんに聞いて頂いておる合楽理念でもです。皆さんが聞いておられるだけでは、神徳の中に浸っておってもおかげはなしと言う事になるのじゃないでしょうか。
 昨日何事かでしたでしょうか。文男先生が自分の言うておること、行うておる事がそのまま合楽理念だと言った様な、まあ大言壮語に聞こえるかもしれないけれども、まあ小さい、親先生の一つの小さい手本、小さい見本じゃあるけれども、自分はそうだと。それがどう言う所からその事になられたかというと、例えば昨日大橋が見えとったから、「兄と何か一つの討論をしたら、絶対自分は負ける」と言うのです。自分は言い切らんちゅう。言葉を知らないと言う。親方のように弁舌はさわやかではないちゅうね。
 自分は昔から物は言い切らん。人と討論したら自分とは負けると思うとるから、だから、いつの場合でも討論しよっても途中で黙ってしまうんだ。その自分のその黙ってしまうその欠点が長所になったという話しをしてました。例えば家内でも言うて聞かせて、その教導したのじゃなかった。もう本当に目に余る様な事があるけれども、黙って心を神様に向けて行きよったら段々十年、二十年経っていくうちにです。家内がもう本当にお父さんが言う事、お父さんが言う事に付いてさえ行けば良いというこの頃。
 あちらの良江さんそれを言ってました。もうとにかく主人が言う通りにしときゃ良いと言う様な、もういうなら家庭の中に火が燈ったわけです。家のお父さんがもう言う事だけはむごう言うばってんから。と言うて嫁御から責められる様な事では、だからいかんと言う事。だから私のは自分の欠点が本当に合楽理念、例えば黙って治めると言った様な事が実行できた。いうなら怪我の功名のようなものだという。
 謙遜してそんな話をしてました。そんならお喋りのできる人がです、おかげが受けられんかというと、そうじゃないです。本当にお喋りがです、人の気に障ったりいうならば、ただお喋りに過ぎずに、それが本当に合楽理念が堂々と本当にお喋りが出来る様なね。いうならば、お喋りが欠点であるとするならば、そのお喋りを長所にしていったら良いわけです。合楽理念はそう説いてあるです。ですから自分が例えば欠点と思うておることをです、自分で長所のように思うて折る様な事はいけませんです。
 よく考えてみて、自分の長所と思うておることが、これがおかげの受けられん癌だな。例えばお喋り、お喋りというと言葉は悪いですけれども、いうならばお話が出来るという人達ですよ。もう本当に水の流れるようにお話のできる人があるでしょうが。例えば昨日、佐田さん辺りのお話を頂いとって、ようあれだけの事を合楽の信心をあれだけ把握して、しかもそれこそよどみなく、あれだけの長い時間ですね。もう何か読みよんなさるように素晴らしかったです。
 とこが佐田さんの場合には、お喋りとは聞こえなかったです。なぜかというとあれを実際に行じて、実際におかげを実証しながらのお話でしたから、お喋りというふうに聞こえないでしょうが。あぁあの人は口だけうまく言わっしゃる、という風には聞こえなかったわけです。あれがもし信心がなかったならば、佐田のおばさんにつかまえられたら、どれだけ話し聞かにゃんか分らん、ちゅうごたる風になっとったかもしれんよ。
 ところが佐田さんの場合なんかは、そうじゃない。皆が求めてお話を聞きに行くわけでしょう。自分のいうならば欠点を長所にしておられるわけです。だからああいういうなら説得力を持って合楽理念が次から次と人に伝えられて行くならば素晴らしかろうと思います。だから合楽理念は、お互いの欠点を長所にし、長所と思うておったのが欠点と気付かせてくれる様な。
 いわばそれを行じていっておると、そう段々分かってくると思うんです。そして本当に先ずは自分の心の中に光が燈らなければいけないと言う事です。そして自分の家庭ぐらいは、もう本当にお母さんが家に居ってくれると安心。お父さんが居んなさるとそれだけで家の中が光り輝くと言う様な。私は光を燈すために芯がなければ火がともらずです。その芯を今日は私は聞いて頂いたんですね。佐田先生が言っとります。
 「金光教の信心を極めようとして実は金光教の、いうなら教えそのものに私は迷宮入りをした」とこう言うのです。それをたまたま合楽におかげを頂いて、これが芯だと分かった時にこの芯に熱がかけられて火がともらないはずがないと私は信じます。そういう信をお互い一つ持たなければならない。その芯に火がともるおかげを頂かなければならないと言う事でございます。
   どうぞ。